「進化しすぎた脳」を読んで感じた事を書いている「脳化学と美術」の第2弾です。

今回は、視覚について考えたいと思います。
網膜には、4種類の光を感じる細胞があります。
1つは、光の強弱を感じる細胞です。
後の3つの細胞はそれぞれ、赤、緑、青を感じます。
この4種類の細胞は、片目に100万づつ備わっています。

100万というと、多いように感じますが、高級な一眼レフは2020万画素のものもあります。
しかし、僕たちの見る風景は、ザラザラしたりしません。

これは、脳が網膜から入った画像を脳内で補填するからだそうです。
つまり、100万画素以上のところは、脳が勝手に作っているのです。
外界の姿を客観的に移していると思いがちな視覚は、実は作られたところが大きいのです。

これは、視覚を司る脳の部位、第一次視覚野を見てもわかります。
第一次視覚野に入る情報のうち、網膜からの情報は、15%くらいしかないそうです。
つまり、85%は脳内で処理するのです。
第一次視覚野に来る情報は他の脳部位から来る情報の方が圧倒的に多いのです。

だから、人によって同じものを見ても、見え方が違うのだと思います。

そしてこれは、昔から多くの画家は知っていたように思います。
19世紀後半頃から、写実的な表現から、印象派等の作者の主観の入った表現になったのは、
一人一人同じものを見ても感じ方が異なることに画家が気づいたからかもしれません。

同じ絵を見ても、いいと思う人とあまりよくないと思う人がいるのは、そもそも絵の見え方が違うからかもしれません。
仮に目や網膜が完全に一致していても、85パーセントの補填する部分は大なり小なり異なるからです。

これは、絵画を目にした時の感動の共有や共感を難しくしている原因の1つだと思います。
しかし、一方で多様な絵画表現を生み出し、美術の幅を大きく広げている原因でもあると思います。
画家が同じ木を見ても、見え方が異なるから表現が根本的に異なり、全く違う絵になります。
こうして、絵画はどんどん幅を広げていったのだと思います。

人によって見え方が違う事は、美術を難しくしている反面、それ以上に面白くしているのだと思います。